村田英雄を男にした西條八十の才能

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歌手の村田英雄さんは王将のヒットによって、歌手としての地位を確立しました。

村田英雄を男にした詩人西條八十の才能とは、どのようなものだったのでしょうか。

西條八十(さいじょう やそ 1892年(明治25年)1月15日 - 1970年(昭和45年)8月12日)は、もともと仏文学者でしたが、詩人・作詞家としても有名です。

特に作詞家としては一次代を築いた人です。
全盛時には大御所としてもてはやされ、その権威にはすごいものがあったそうです。
このことは作詞家のなかにし礼さんの著作のなかでも紹介されています。

高校の時の国語の副読本に日本文学史というものがありました。
そのなかで西條八十も紹介されていましたが、「後年は流行作家に堕した」という言葉で終わっていたのをよく覚えています。

流行歌の作詞者になったからといって、
詩人西條の才能の価値が下がるものではありません。

むしろ、あれだけの流行歌を生み出した西條の詩人としての値打ちは、流行り歌の作詞をすることによって、よりいっそう広く日本の人々の心に、その並々ならぬ才能を印象付けたと考えます。





誰も見たことも聞いたこともない詩よりも、
誰でも知っている優れた日本語で書かれた詩の方が、よほど価値があると考えます。

文章はある程度ごまかせますが、
詩的な才能はごまかしができません。

西條八十の書いた詩は、
ひとめ見ただけでその才能が伝わってくるレベルの、すばらしいものです。
彼の予言通り、
西條のつくった歌は後々まで残り続けるでしょう。

西條八十はどのようにして詩を書いていたのか。

そのことを知る上でひとつのヒントになる話があるので紹介しておきます。
かなり前、まだ村田英雄さんが生きていた頃に、新聞の記事に載ったものです。
記憶に頼った記述ですので、一部言葉使いに誤りがあるかもしれません。

村田英雄さんはもともと浪曲師で、古賀政男
さんのすすめで流行歌の世界に転身した人でした。

浪曲師としての成功と比較して、いま一つヒット曲にめぐまれないと考えた村田英雄さんは、歌謡界の大御所である西條に歌をつくってもらおうと考えたそうです。

そこで西條のもとにお願いに行った村田さんへの西條のひとことは思いもよらぬものでした。
「おれは人を見て歌をつくる。おたくの歌はつくれない」





西條八十にこんなふうに言われてしまった村田さんはがっかりしたそうです。

「おれは男の演歌は書かない。
たしか、ド演歌とおっしゃったと思うけど」
その新聞記事のなかで、村田さんはこのように回想していました。

西條八十は、あか抜けた洗練された詩しか書かない人です。
男のどろどろしたやぼったい歌はつくらないと言いたかったのだろうと思います。

初対面でいきなり断られた村田英雄さんでしたが、それにもめげずに何回も西條八十のもとを訪ねたそうです。

そうこうしているうちに、ある日のこと、
西條八十が、
「できたよ」
と言って村田の目の前に紙を差し出したそうです。

手にとってその紙を見ると、
「吹けば飛ぶよな 将棋の駒に 賭けた命を 笑わば笑え」
という言葉が書かれていました。

「先生、歌って、これだけなんですか」
と不審そうに尋ねる村田に、
「ここまでできれば、できたようなものだよ」
というのが西條八十の答えだったそうです。

詩人は最初の言葉にこだわります。
出だしといってもいいでしょう。
西條八十の詩はとくにそうです。
彼の詩を読めばすぐにわかります。

村田英雄さんの期待通り、
大御所西條八十の才能は裏切りませんでした。
「王将は」大ヒットを記録し、
村田英雄は歌手として不動の地位を確立したのです。

村田英雄を一発で男にした不世出の天才詩人。
西條八十の名前は彼の予言の通り、
これからも残り続けるでしょう。


西條八十詩集 (ハルキ文庫)  西條八十―唄の自叙伝  流行歌 西條八十物語 (ちくま文庫)





 

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